2008年05月16日

四川大地震とサイクロン「ナルジス」U

 
かわいそう?…被災した人が?それとも、あなたが?

-miya-




 連日の報道は地震に偏っているものの、サイクロン「ナルジス」による犠牲も甚大である。15日付でミャンマー国営テレビが報じた死者数は、4万3318人となった。国連は現時点から倍以上の10万人もの犠牲者が出ると推測している。

 四川大地震の犠牲者数も、最悪のケースを想定して5万人以上と推定されている。発災から72時間以上が経過しておりその生存率は1割弱まで低下(総務省消防庁)すると言われる。

 人の力と奇跡を信じたい。



 もし、このような被害を受けて「かわいそう」と思ったり、それを動機に何か行動しようとするのなら、気をつけて欲しいことがあります。

 悲惨な環境に共感することは大切ですが、共感と行動を安易に結びつけるというのは、極めて危険なことなのです。

 人の不幸に対し、何かにつけて「かわいそう」と言ったり、社会福祉を学んだものとして許し難いのですが、心身にハンディキャップを持った方に対して「かわいそう」と言う方がいます。

 その方が、地震やサイクロンの被害をどう感じても構わないのですが、被災された方に対して「かわいそう」という表現が正しいのかどうかを、よく考えてから使っていただきたいのです。



 もし、あなたが同じ環境にあったとして「地震で家も家族もなくして、あなたはかわいそうですね。大したことはできませんが、わずかばかりのお金をあげます。」

 と100円を渡されて、どう感じるでしょうか。

 「かわいそう」という表現は、明らかな優劣をイメージさせ、もっと言えば「かわいそうなあなたのために、わたしが"して"あげます」というのと同じです。

 "共感"とは、読んで字のごとく、"共に感じる"ことであって、自己満足のための言い訳ではありません。

 あなたがかわいそうと思っているかどうかは、被災された方にとっては重要ではありません。

 「ああ。この人は私のことを"かわいそうだ"と思ってくれてるから、お金や物資をくれるんだ!」と喜ぶ人がいますか。



 ここまで読んでいただいた方なら、もうお分かりですね。

 真に"相手の立場になって考える"とは、"かわいそうだと思う"ことではないのです。

 逆説的に、"かわいそう"だと言っている人(というより、かわいそうだと言うことに満足感を得る人)は、相手の立場で考えるどころか、自分と相手を勝手に比較して"見せかけの共感"に浸っているだけなのです。



 被災地では「ボランティアがどう感じようが構わない。働いてくれるなら。」という言葉もあります。

 つまり、ボランティアとして自分の仕事をこなすなら、かわいそうだと思おうが、神の使いと思おうが一向に構わないということです。

 また、お金を出してくれるなら、脱税された金だろうと、子どものおこづかいだろうと構わない、ということです。

 但し、それはあくまで現場主義的判断であって、我々のような災害ボランティアに関わる者が、現地に行って、数多くの"駆けつけボランティア"を対応するときの考えです。

 そのボランティアが何を考えているか逐一把握していたら、とてもじゃないですが片付きません。また、恐らく皆さんが想像する以上に、偏屈な人や理解に苦しむ理屈を並べるボランティアもいるのです。

 そんな状況では"働くボランティアなら誰でもいい"となります。
 なお、口先だけで"働かないボランティア"は、十中八九締め出されるか、相手にされません。

 いずれにせよ"どう感じようが構わない"というのは、社会一般の方が持つ感覚として適切ではないでしょう。



 この機会を真摯に受け止め、自分の中の感情と向き合ってみてはいかがでしょうか。
posted by Miya at 09:43| 東京 霧| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「かわいそう」と思うことがダメならどういう感情を持つべきなのでしょうか?
筆者は文中で「共感」という言葉を使用してますが、「共感=相手の立場になって考える」ということが、どれだけ困難なことであるかは、筆者自身が大いに日々現場で実感されていることではないでしょうか?
また「かわいそう」は感情表現であり、「共感」をその対立概念として持ち出すのは、矛盾してます。
また実際に現場で作業にあたる人ですら困難なことを我々マスコミのフィルターを通して遠まきに眺めている存在に求めるのはいささか無理があるといえませんか?
まして今回のは、中国ですよ。
共感ってあいての言葉もわからずにそんなことが出来ると思いますか?
Posted by ここ at 2008年05月16日 12:27
ここさん、コメントありがとうございます。とても貴重なご意見ですね。

ご質問はいくつかあるのですが、3つのポイントに整理したいと思います。

1、「かわいそう」という感情を持つことを否定はしないこと
2、「かわいそう」の感情表現には共感が前提条件であり、対立はしないこと
3、こうした考えを一般の方が持つこと、考えることが無理か、判断はできないこと

まず1ですね。
かわいそうという感情はもってもいいんですよ。僕には、他人の感情の否定などできません。人の心は同意さえしなければ、外部の力に支配されたり抑圧されることはないのです。ここでお伝えしたいのは、かわいそうと思うにあたって、またそれを動機とするにあたって、気をつけて欲しいことがある、ということです。

次に2です。
なぜ人は「かわいそう」と感じるのでしょう。例えば、転んでケガをした子供を見て「かわいそう」と感じます。それは自分が転んだ経験、痛さやショックをその子に重ね合わせ、同一視しているからではないでしょうか。それは、正しいかどうかは別としても、相手の立場になって考える¨共感¨とは言えませんか。例え言葉が通じなくても、かわいそうと感じるとき、自分と相手を重ね合わせている点は、同じですね。

最後に3です。
誰かが、何かを考えることに対して、それが無理であるとか出来るはずがないと、判断することはできません。

少なくとも、ここさんは僕の意見を真剣に受け止め、さらに意見まで述べていただけました。本当に嬉しく思っています。

そして、意見を述べるにあたっては、自分の中の感情と向き合い、僕の感情と異なる部分があることに気づかれたはずです。
それが、3の何よりの証拠です。僕と同じように感じて欲しいのではなく、考えていただければ十分です。

以上、回答させていただきます。
Posted by miya at 2008年05月17日 14:51
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