防災活動は、なぜ存在するのか―?
この問いに答えられる者がどれだけいるだろう。
人の呼吸がそうであるように、必要欠くべからざることであれば、その存在意義は明確である。
存在意義の不明瞭さが、曖昧さが、必要性に疑問を投げかけているのではなかろうか。
誰もが心の奥底に秘めた微かな不安を、無遠慮なまでに掘り起こし、不安という名の不快感を日々与え続けようとするもの―。
迫りくる危険を過小評価することによって、ようやく得られた偽りの平穏を崩し、自らの評価が誤っていることを証明しようとするもの―。
防災は、多くの人にとって、そうなのかもしれない。
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防災に取り組む者は、防災に取り組まぬ者を評してはならない。
意識の低さを、個人の危機管理意識の低さとしてはならない。
すべて人は、自らの最大の危機に対して"無関心であろう"としていることを知らねばならない。
最大の危機とはすなわち「自らの死」である。
いずれ死が訪れることを知りながら、その不安と不快感に耐え切れず、それを忘れ、奥底へしまいこんで考えない。
誰かがそれを掘り起こそうとすると、過剰なまでに反応し、
「不謹慎だ」「縁起が悪い」
と否定する。自ら無関心であることを指摘されることは、それを考えるのと同じくらい、否、それ以上に不快なのだ。
防災に取り組まぬ人と、死を考えない人と、一体何が違うというのだろう。どちらも、不安に対して防衛しているに過ぎない。
あなたも、僕も、日々通り過ぎていく幾千幾万の人も、すべて同じである。そこに違いを見ることは、部分を見ることであって、全体を見ていない。
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では、最初の問いに戻り―防災活動はなぜ存在するのか―。
自らを守るため…は近いようで、本質ではない。
自らを守りたければ、防災よりも"適度な運動、バランスの良い食事、快眠快便"の生活を維持することに心血を注ぐべきだろう。
命を守るため…とはいったいどの命を指すのだろう。
世界で一日にどれだけの人の命の灯が消えているか、考えたことがあるだろうか。
命を守るためならば、ほかにすべきことがある。
再び、ではなぜ、防災活動は存在するのか―。
「自分」でも「誰か」でもなく「あなた」のためにある、と答えよう。
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人は(一般的に)自らの思考をコントロールできる。
従って、自らの安全を確保するために合理的な方法を選択できるので、自らを守るために防災以外のことも可能だろう。
命を守るためには、防災はあまりにも不確定要素が多すぎて、また突発的すぎて、抽象的すぎて困難である。
いつ、どこで起こるかわからないものから命を守るのは容易でない。
…
ここで言う「あなた」とは、ある人にとってかけがえのない「あなた」を指している。それが家族でも恋人でも友人でも構わない。
すぐ近くにいる、自分を信じ、愛してくれる人のことだ。
その人のために、ただそれだけのために、防災活動は存在する。
あらゆる理由はただその一点を修飾するものに過ぎない。
なぜ、そう言えるのか。
***
自分が死ねば、感じられないのだから、悲しみも苦しみもない。
だが、自分が死ぬことによって「あなた」は、どれほど悲しみ、苦しむだろう。
想像を絶するようなつらさ、切なさだろう。
「あなた」にそんな思いはさせたくない。誰もが、そう思うはずだ。
今、「あなた」に該当する人物がいないとしても、同じことが言える。
結論はこうだ。
「人はある特定の人にとってかけがえのない人であり、お互いの気持ちが強ければ強いほど、それに比例して別れの辛さも強くなる。誰かにとって、最大の苦痛を与える要因にもなるが、最大の喜びも与えられる。両者を成立させるのが、防災活動である」
・災害で自分が死んだら「あなた」は苦痛と責任を感じる。
・災害で自分が助かれば「あなた」は幸運と再会の喜びを感じる。
自分を守ることで「あなた」を救う。
それが、防災のあるべき姿だ。それ以外に何があるだろう。
馬鹿馬鹿しくなるほど論理化・合理化された防災屋の理屈に真実の姿はない。
本質<リアル>とは、単純なものだ。
広く言えば、自らの命を守るためにとるすべての行為が、防災活動なのだ。
勝手にカテゴライズされた防災に振り回される必要はない。
本質に"気づく"こと。それが、防災活動の第一歩である。
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