人の関心をひきつけないものは忘れ去られていく。
忘却もまた世界と人の変化である。
名前なき地震を、どれだけの人が覚えているだろうか。
その地震で、負傷者や死者がいたことを、覚えているだろうか。
偶然にも連続して起きたことで関心を集めた地震だが、被害が相対的に小さかったこと、命名されなかったことで報道は収束、あっという間に沈静化している。
さらに「数字をとれる」ニュースが次々と起こり、いずれ人々の記憶には「地震多かったね」くらいしか残らない。
自然は意味もなく人命を奪うことはない。すべからく起きた結果であって、その結果について思考することに本質的な意味はない。
思考は外的な刺激に対する記憶・経験・知識の反応である。
刺激がなければ具体的な思考にはたどり着かない。
日本国内で、マグニチュード6-7(今回の地震とほぼ同規模)クラスの地震が何回起きており、それによってどんな被害が出ているか、考えたことがあるだろうか。
その地震と、今回の地震の違いについて考えたことがあるだろうか。
"必要がない"と判断された情報は刺激にならない。
従って思考することもない。
思い出すことも、記憶されることもない。
それは"存在していない"のと同じである。
些細な地震とその被害など、街行く大多数の人にとっては"存在すらしない"ということだ。
これが思考の壁である。
壁を乗り越えない人に、思考は何も与えない。
思考の壁こそ、無関心と悲劇の元凶ではないか。
原始の人、そしてより自然に近い人は、思考の壁を作らない。
生命の神秘や、広大な空や海、美しい草花について思考し、根拠を探ろうとすれば壁は限りなく高く厚くなる。
それらはその存在であることに意味がある。
人間の思考の範疇になど収まるものではない。
感じなさい。ただ、そのものを感じなさい。
思考や、雑多な情報によって歪められてはいけない。
そうすれば思考の壁にさえぎられることなく、本質にたどり着き、何を為すべきかが見えてくる。
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